現在、病気で大切な人を亡くした遺族へのケアというのは、日本ではあまりありません。
そのため、その経験で受けた心の傷を回復するには、日本ではそれぞれの個人の努力が必要です。
どうやったら回復できるのか?どのくらい時間がかかるのか?
正直、それは人それぞれになってしまいますので具体的に提案するものではないと考えています。
ですが、今回は「一般的な」心理学や宗教などから読み取れる回復の道筋のお話をしようと思います。(大学で学んだ心理学のお話です)
喪の作業
大切な人を失い、残された遺族が「心の傷を回復する作業」、これを「喪の作業」といい、誰もが自然と行っています。
心の中で進める喪の作業もあれば、儀式や儀礼(宗教を通じた埋葬や葬式など)のように目に見える形でする作業もあります。
この喪の作業は長い時間をかける必要があり、また心の苦痛を伴うものですが、これが終わると同時に心の苦痛が解決します。
しかし、現代では「喪の作業」をするにあたって大きな壁があるのも事実です。
社会復帰を強要される現代
昔は「喪」の期間として、十分な悲しむ期間が与えられ、仏教などの儀式を通してその悲しみを表に出すことが許される環境でしたが、現代では2~3日休めばすぐに社会復帰をしなければならないという方が多いのが現状です。
つまり、悲しみから回復したような素振りを見せなければならない環境なのです。
心の整理をつける暇もない、これは本当につらいことです。
だからこそ、心の中で進める喪の作業が特に大切になってきます。
少し掘り下げてみましょう。
フロイトが言う「喪の作業」の意味
喪とうつ病のちがい
大切な人を亡くすと、遺族はうつ病のような状態になることがあり、「私は大丈夫なのだろうか」と心配になるかもしれません。
精神心理学者のフロイトは、「喪とメランコリー」(喪=悲哀のこと、メランコリー=鬱(うつ)のこと)という著書にて、喪の作業とうつ病を比較し、それぞれの違いと意味を説明しています。
それによると、喪と鬱は似た症状が出るものの、明らかに異なるもので、喪は病気ではない(正常なこと)としています。
喪とうつの共通点
両方の共通点は、
- 「大切な愛する対象(内容はそれぞれ異なる)を失うこと」が原因となる点
- 外界への関心を喪失したり、新しい「愛の対象」を見つける能力の喪失、死者の思い出と「関わりのない」あらゆる行動の回避など
です。
「喪」で失う「大切な愛する対象」は
実際に存在していた対象(大切な人)であり、それを喪失することが喪です。
一方で「鬱(うつ)」でいう「大切な愛する対象」は少し異なっていて、
愛する人や自分の強く持つ理想、祖国や自由といった概念を指し、
鬱とはそれらの大切な対象から強く侮辱されたり、失望させられたりすることにより「自我を喪失すること」なのです。
(喪は何を失ったか明白ですが、それと異なり、鬱はなにを喪失したか明確でなかったり、理解できていなかったりするという違いがあります。)
そう、喪では愛着の向かない外界が貧困になり(愛する人がいない世界は魅力がないと感じます)、空虚になる状態ですが、うつ病は対象への憎悪が自分へ向くこと(侮辱されたのは自分が悪いからだ・・等)で自我が貧しくなるのです。
しかし、喪の作業に没頭すると、別のことに対する関心などは残されておらず、まるで何も興味が持てないような、うつ病と同様の症状が出るということですね。
だから、うつみたいになったからといって、心配しないでくださいね。
では、「喪の作業」がはじまると、具体的に心の中では何が行われているのでしょうか?
喪の作業における心の中の流れ
喪の作業(心の回復)はどのように進んでいくのか、フロイトは「リビドー(性的欲動のこと、つまり愛着を持つこと)」という言葉を使って説明しています。
リビドー(愛着)は、その人の心の中にある量的なものとしています。つまり、愛着のある人や物へはリビドーがたくさん振り分けられていて、どうでもいいものにはリビドーが全然配分されない、というわけですね。
- 対象の死が起こる
- 対象へのリビドー(愛着)の備給
(心の中で大切な人へ「自分の中のリビドー」を配分し続ける=簡単にいうと「大切な人への愛着を持ち続ける」こと。この段階は、死んだことが信じられない状態) - 備給の多量の消費
(追想する、思い出に浸る) - 現実を吟味し、失われたことを認識
(境界をきちんと引く) - 現実を尊重し(自分は生きることを選択する)、リビドーを解き放つ(対象への愛着を離す)
死を目の当たりにして、最初のうちは生前と同じように愛着を持ち続けますが、徐々に大切な人との過去を思い出し、亡くなっている現実とのすり合わせを行っていきます。時間をかけて現実を吟味することで、自分は生きなければならないと気づき、新たな対象へ目を向けていくことで心が回復していきます。
これが喪の作業です。
どれも必要な工程で、特に【④現実を吟味する】作業はとても時間がかかります。
そして、大切な人から愛着を離すという作業は、とても心の苦痛を感じる作業です。離したくない、と無意識に抵抗するからです。
また、【③追想の段階】では、体験の言語化(ことばにすること)を通して気持ちの整理をしていきます。
ことばの力と記憶
言語化=ことばにする、語る、書き記す、話し合うことです。
ことばというのは、どの人も同じように使える一般的なもので、かつ客観的なものです。
思い出や過去をことばにすることで「他者とつながり」、「共有する」ことができるようになります。これが過去の思い出と、現実(今の大切な人がいない現状やそれに対する気持ち)を吟味する作業のひとつとなります。
そして、死を言語化することによって、死を客観的に見て「亡くなったのは紛れもない事実だ」と肯定ができ、その死を踏まえて生きていくことができるようになります。つまり、ことばにすることで大切な人の死に踏ん切りをつけることができるわけです。
亡くなったことは分かってるよ、過去の思い出も心の中で思い返してるよ、と思うかもしれません。
しかし、記憶というのは無意識のなかにあります。それを思い返すためには(意識下に持ってくるには)心の中でももちろん、口に出したり書き出したりといった、ことばによる解釈が必要です。(心の中でも断片的にことばが出てくるはずです。)特に、口や手を通してことばとして表に出てくると、とても具体的になります。それがあることで、改めて客観的に認識できるようになるわけですね。
この「ことばによる解釈」は、ことばの語彙(ボキャブラリー)や知識に左右され、人によってはことばにするのが難しいと感じたり、はたまた数年、数十年後に心が発達することによってようやく新しい意味が付与されることもあります。
このことからも、喪の作業、特に【④現実を吟味し、失われたことを認識する】についてはとてつもなく時間のかかるものなのです。
すべてはアイデンティティ
大切な人を亡くして空虚を感じるのは、自分のアイデンティティ(個性、自分を形作るもの、自分たる概念や思想のこと)を見失うことが原因です。
まるで自分のお腹に穴が開いたような、自分の体の一部がなくなったような、そんな感覚です。
今まではその人とつながることで(きずなを持つことで)「つながっている自分」「その人ときずながあるのが自分」だと認識し、それによって自分自身が保たれていました。ですが、その親しい人が亡くなると愛着を向ける先がなくなり(その人へ愛着を向けている・その人とつながっているのが自分である、という考えが無くなってしまうことで)、自分を見失ってしまいます。
しかし、過去を想起し、もう一度その人と積み重ねてきた過去(=揺るぎのない、アイデンティティを形成するもの)を認識し直すことで、忘れかけていた自分、生きなければならない自分を思い出します。(過去は変わらない、つまり自分のアイデンティティを作り上げたあの人とのきずなは、実体が無くなっても在り続ける。自分がなくなったのではない、だからこそ生きなければと思い出します。)
それが、【⑤現実を尊重すること(生を選ぶこと)】となり、心の回復につながります。
無関心は死者をふたたび死なせる
亡くなった方の価値を決めるのは、生き残っている人です。
もどかしいものですが、生きている間は自分の人生は最後まで意味づけられませんが、死んで最後を迎えると、自分の人生をどう意味づけるかは生きている人に託すしかありません。(天国で「こんなだったなぁ」と意味づけをしているかもしれませんが、この世では「こうだったよね」とは確認できません。)
生きている人がその人を「こんなだったなぁ」と想っているということは、この世にその人の痕跡・その人の居た意味が残っています。
しかし、亡くなった方に対して無関心になったとき(想う人がいなくなったとき)、死者はふたたび死にます(この世界から完全になくなります)。
では遺族はどのように想いを持ち続ければいいのか(ずっと悲しい気持ち?代わりに頑張ってやろうという気持ち?一緒に生きようという気持ち?・・)、
何のためにその人を想うのか(自分のため?その人のため?家族のため?世の中の人のため?・・)、
死者へどのような態度を取るのか(想い続ける?すっぱり忘れる?たまに思い出す?尊敬?怒り?悲しみ?・・・)。
今まで築いてきた大切な人との過去に踏ん切りをつけ、
その人との過去をどう未来につなげていくのか(自分はその人と積み上げてきた過去をどう活用していくのか?)。
この「想い、態度」を決めることで、死者との記憶が再構築され、新たな価値観が作り出されます。
そしてこれが、大切な人の死が、生きる励み(生きていく上での大切な経験、知識)となります。
最後に
「大切な人との別れ」から回復するまでには、様々な思いや苦痛にぶつかるはずです。
ですが、どれもが必要で、どれもが生きる糧となり、どれもが大切な経験となります。
亡くなった方をどう想ってあげて、自分がどう次に繋げていってあげるか、そこに思いが至れば、もう大丈夫です。
ただ、ずっと苦痛なのもつらいので、たまには忙しくしたり気晴らししたりして苦痛から離れるのもいいですし、この「喪の作業」が何年かかっても誰も文句は言いません。
どうか自分のペースで見つけてあげてください。
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