母が亡くなってから5ヶ月たつ今、ようやく頭の中がスッキリしてきたので
スッキリするまでのことをちょっと書いておこうかなと思います。
ずっと考えていたこと・・・
それは、「生きる意味」。
まず、大前提のおはなし。
生きていれば、必ず死は存在していて、
それが早いか遅いか、その原因が老衰なのか、病気なのか事故なのか、戦争なのか・・・
ただ、それが人によって違うだけです。
いま健康な20代の私だって、いつかは死にます。
死は普遍的で、誰にでもあるもの。そう思うと、自分だけじゃないんだとちょっと安心します。
これが大前提。(とても当たり前のことですが、普段は意識してないと思います)
この、死は誰にでもあるという前提で「生きる」を考えます。
すると、いつもより「生きる」ことが大切に思える気がしませんか?
さて。
こんな話で不安にさせてしまったかもしれませんが、
がんになったら、すぐ死に直結するわけではありません。
今の技術で治るがんもあります。
反対に、治すのが難しいがんもあるし、
進行が早いがんもあれば、ゆっくり進むがんもあります。
つまり言いたいことは、「死」を見るのではなく、「生」を見てほしいということ。
それを忘れないでくださいね。
私と同じように大切な人ががんになった方たちはもちろん、がん患者さんご本人にも、
「生きる」ことに対して、こんな考え方もあるんだなぁくらいの参考にしてもらえればうれしいです。
「生きる意味」を真面目に考えることになる
母がまだ元気な頃は、どうやって楽しく過ごすか、何をしたら母は楽になるか、
膵臓がんやっつけてやるーーー!と、そればかり考えていました。
(↑これ、すごくいい考え方だと今でも思います)
が、亡くなってから数カ月はずっと
「人はどうして生きるんだろう?」ということをもんもんと考えていました。
だって、「どうせ遅かれ早かれ死ぬんでしょ!!」・・・と。
意識していなかったのに、母の死で「死」を意識せざるを得なくなり、
「生」をとても現実的に直視しなくてはならなくなりました。
これが真面目に「生きる意味」を考えることになったきっかけです。
私の場合、母が亡くなって「悲しい」という感情は、
実はかなり早い段階(1週間くらい?)で無くなってました。
意外だと思います。
「死」に直面したあと感じるのは「悲しい」ではなく「むなしい」なんです。
よく心にぽっかり穴が空くと言いますよね、あれです。
ただ、その人の分の穴(記憶や拠り所)が空くだけだと思いがちですが、それだけではないんです。
自分のもつ概念、常識、考え方に穴が空きます。「今まで信じてた考え方ってなによ?」ってね。
だから、むなしくなる。
「悲しい」を卒業する時期は人それぞれ、これは私の精神が強いうんぬんではない。
母が生きている間に、こうなることが無意識下でも「納得できた」=この状況の準備をできたから、卒業が早かった。
納得するために必要だったのは「闘病中、長い時間母を見る(看る)こと」でした。見ると変化がわかりますよね。いいことも、悪いことも。
看取ったときに「ようやく苦しい痛みや辛さから解放されて良かった」と感じられたんです。
そしてこの「納得」があったからこそ、「悲しい」とはあまり感じなかったのだと思います。
まぁ、別途書こうとは思いますが、亡くなってから母の存在をひしひしと感じるのは
悲しくない大きな理由かもですが・・・(霊感みたいなものは皆無なんですが笑)
ぽっかり空いた穴。
母という甘えられる存在、居場所がなくなったということへの「むなしい」よりも
私の場合、人が生きることへのむなしさが溢れ出してきたわけです。本編へつづく。
※一応、鬱ではありません笑
そもそも考えたことなかった。どうして生きるのか?
身近な人が亡くなるのは、同じ「亡くなる」でも
ニュースで見た「見知らぬ誰かが亡くなる」のとは大違いです。
その人の人生を一緒に見てきたから。特別なんです。
だから、大切なその人が人生を終えたとき、
自分の中でなにかが変わります。
私の場合は、「生きることへの考え方」でした。
でも、本当はみんなが元気でいる間に
「生きることへの考え方」をしっかり見極めたほうがいいに決まってます。
私は遅かった。だから読んでくださっている皆さんには、考えてみてほしい。
生きることへの考え方が変わった理由
(余談にある『考え方にぽっかり穴が空いた』理由)は、
人は亡くなってはじめて、その人の「生きてきた意味」が決まると気づいたから。
終点が決まれば、内容も目的も、最終決定しますよね。
「あっ、この人の人生は、こんな全体像だったのか!」
と初めて分かる、ということです。
まぁ私の場合、考えたことがなかったので
「今までの考え方が変わった」というより
「今まで真剣に『生きる』ことに向き合ったことがなかった」というのが正しいかな。
日々仕事をして、残業してはクタクタで家に帰って、寝る。
次の日もまた同じ・・・
何のために生きればいいのか?私は何のためにいるの?・・・悩む私でした。
母の場合は、大きなひとつの「生きてきた意味」は
私たち3人の子どもを育てることだったと思います。
慌ただしい日常で、3人もいるのに、一人ひとりをきちんと見て、愛情を込めて育ててくれました。
子どもが3人とも結婚して巣立った頃に膵臓がんは見つかりました。ようやく一人の時間を楽しむぞ!と夢だったワンコを飼い始めた、そんなときでした。
まるで役目を終えたかのようなタイミングでした。
では私の場合は、「生きる意味」って何なんでしょう。
数ヶ月悩みました。本編へつづく。
なんのために居るのか?
じゃあ、死ぬまで「生きる意味」が分からないんだったら、何のために生きればいいの?
どうせ死んじゃうなら、どうして生きるの?
私、ここに居る意味ある?
この地獄のループの始まりです。笑
さて。
私の解決策は、
「私がやったことが周りにどう影響するのか?」を考えることでした。
そこに「居る」ことは、何かしらに影響を及ぼすわけです。
人でも、物でも。
会話をすれば、相手が喜んだり悲しんだり驚いたりする。
なにかを創れば、喜ぶ人がいる。
結局は、何をしても誰かに繋がります。(気づかなくても!)
では!
私ができることをして、
誰かに繋がる(一人でもたくさんでも、小さなことでもなんでも)なら
生きる意味になるのでは?
誰にでもできることでなく
「私にしかできない」ことをする。
ちょっと光が見えてきました。
それが私の中で「私が生きる意味ってなに?」に対するスッキリした答えでした。
「私にしかできない」ってなんじゃ
そもそも、それです。
「私にしかできない」ことってなんなのか。
例を挙げましょう。
小さなことなら、たとえば「夫と会話して楽しそうに笑わせる」
これって、私にしかできないことです。
少し大きなことだったら、
私にしか描けない絵を描いて誰かを愉しませる。
そんなことでいいと思うんです。生きる意味って。
そんなことを頑張ればいいんだと思います。
「でも、本当に私にしかできないのかな?」そう思うことだってあるはず。
そんなときは、
「自分だけは自分を信じてあげてください。」
恩師の言葉を引用しました。
「自分でさえ信じられない人を、誰が信じてくれますか?だから、自分だけは自分の味方で居てあげてください。」
自分は信じてあげましょう。
どうか、生きる意味に悩んだら、こんな考え方も参考にしてもらえたらと思います。
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